およそ240年前、江戸時代の中期に桑名の沼波弄山が朝日町小向村に窯を造り、大四日市まつりは諏訪神社の例祭の余興であった「四日市祭」を昭和 39年に名称変更され続いている四日市市の代表的なお祭りです。全身となっている「四日市祭り」は今から300年前には行われていたとされています。練り 山車や釣り練りの多さと、豪華さで高山祭り・長浜祭りと共に東海三大祭りとして広く知られていました。戦災により鯨船と大入道などを残しただけで、多くの 練り物を焼失してしまいましたが、昭和34年に「港まつり」と名称を変更し、現在の「大四日市まつり」として続いています。大四日市まつりは「四日市祭」 で行われていた出し物だけでなく、市内各地の民族芸能も出演しており、四日市市全体の夏祭りとして毎年8月第一土曜日及び日曜日に開催され、大きな賑わい を見せています。
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地域の人々から「おすわさん」と呼ばれ古くから商業・漁業の神として崇敬されてきました。建仁2年(1202)に信州諏訪神社から勧請したのが創祀。例祭 は毎年9月25日から27日の3日間行われます。御祭神は 建御名方神(たけみなかたのかみ)と八坂刀売神(やさかとめのかみ)。御神徳 商売繁盛/家内安全/開運/厄除けなどのほか、料亭大正館での結婚披露宴などの挙式が行われています。
三重県四日市市諏訪栄町22-38(059-352-2422)
およそ240年前、江戸時代の中期に桑名の沼波弄山が朝日町小向村に窯を造り、名谷山の土を用いて茶道具を作り始めたのが始まりと言われていま す。弄山は万古の名を永遠にとどめたいという願いを込めて『萬古不易(ばんこふえき)』の印を作品に押しました。沼波弄山の作品を特に古萬古といいます。 古萬古の陶法は、京焼の乾山から流れをくんでおり、異国通であった弄山らしさがよく表現されています。図柄は植物や龍の他、当時にしては珍しいライオンな どの動物が描かれています。その出来栄えは、高く評価されています。
弄山の後、森有節、千秋の兄弟らが朝日町小向に窯を築き、焼いたものが有節萬古と呼ばれています。弄山の子萬古とは異なり、有節独自が開発した釉薬による鮮やかなピンク色が特徴です。四日市萬古や桑名萬古はこの有節萬古から流れを組んでいます。
四日市における陶磁器工業が伸び悩んだ頃、水谷寅次郎が半磁器を完成させました。これは大正焼と呼ばれ、黄濁色の非常にこわれやすいものでしたが、燃料費 の節約ができることもあって、当時、非常に人気がでました。また、機械化がすすみ、四日市における陶磁器工業の発展への大きな足がかりとなりました。
新たな四日市港が造られた後、萬古焼は国内・海外へと広がるようになりました。第二次世界大戦後の荒廃時でも、当時の萬古焼業者達の努力のおかげ で戦前以上の発展をしました。長い伝統と歴史の中で、四日市は日本屈指の陶産地となったのです。明治3年(1870年)、山本忠左衛門(やまもとちゅうざ えもん)が四日市浜一色(よっかいちはまいっしき)の地に窯を開き、有節万古の技法を取り入れ、四日市万古の基礎を作り、万古焼きの中心は四日市へと移っ ていきました。 明治時代中期には、煎茶の流行とともに、現在の万古焼き急須の定番とも言える「紫泥急須(しでいきゅうす)」も開発されました。これを「四日市萬古(よっかいちばんこ)」と呼んでいます。
萬古神社周辺で昭和38年から毎年行われている祭りです。約100店もの露店が軒を並べており、大変な人気を呼んでいます。土鍋では日本でトップ の生産を誇っています。開催日は毎年5月第2土曜日及び日曜日で、四日市市陶栄町3丁目の萬古神社周辺で行われています。行かれる際は再度日時をご確認く ださい。
四日市港は幕末から明治初期にかけて、伊勢湾内における最大の商業港として船舶の出入りや、旅客の往来、物資の集散が盛んでした。明治3年には四 日市~東京間にはじめて汽船による貨客定期輸送が開始され、この定期航路の開通により、港勢は飛躍的に伸展しました。明治32年に開港した四日市港は、主 に羊毛、綿花の輸入港として栄え、昭和27年には、外国貿易上、特に重要な港として特定重要港湾に指定されています。 四日市港は我が国有数の石油コンビ ナート等を要するエネルギー供給基地として重要な役割を担っています。さらに、昭和44年からコンテナ貨物の取り扱いを開始するなど国際海上輸送のコンテ ナ化にも迅速に対応し、東南アジア、中国航路をはじめとするコンテナ定期航路網は年々充実しつつあります。
昭和6年から今でもずっと使われている現役最古の鉄道の跳ね上げ橋(跳開式可動橋・末広橋梁)。国の重要文化財に指定されています。通常はあがっ ていて、船が港の中まで入れるようになっています。一日何度か、ここを貨物鉄道が通るときに橋が下がってきて鉄道が通ります。船が通るときに橋が跳ね上が るので、踏切がついています。また、近くにある相生橋は、とてもレトロチックな形をしており、夜に見るととても幻想的です。
丹羽文雄は、明治37年に四日市市浜田の真宗高田派佛法山崇顕寺(そうけんじ)に生まれ、宗教家として歩むはずでした。しかし、文学への志を断ち がたく、生母をモデルとした「鮎」の好評を機に昭和7年、家出のかたちで上京しました。昭和10年代には、時代を代表する中堅作家としての地位を築き、そ の後、半世紀にわたって常に第一線の作家として活躍しました。特に、戦後は数多くの話題作を次々と発表しました。まず、昭和22年に、『厭(いや)がらせ の年齢』を発表、その表題は流行語ともなりました。現在大きな社会的課題となっている高齢者の問題をいち早く取り上げたものでした。大正元年創業の料亭 大正館にも足を運んだと言われています。
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